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体罰について考える~「ビンタ事件」を受けて~

いまさらですが、ジャズ演奏者のビンタ事件を受けて「体罰について」考えてみました

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ジャズミュージシャンのビンタ事件で、体罰の是非がまた論争になっています。
現役で子どもを指導する人間として、なぜ体罰はダメなのかについて考えます。

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 体罰の害

まず、体罰は現行の法律では違反した犯罪です(学校教育法により)。
この点は議論の前提としなければならないと思います。

では、なぜ体罰を行ってはいけないのでしょうか?
それは、体罰が子どもの健全な成長を妨げるからです。

他人から暴力を受けたり、暴言を吐かれたりしたとき、人は当然の反応として恐怖や怒りを覚えます。

成人であればその痛みを表現し、二度としないようにと訴えることができるでしょう。その相手と縁を切ることも、嫌うこともできるでしょう。

 

ところが、大人の保護や愛情なしで生きられない子どもにはそれができません。
「暴力を振るう大人に抵抗する自由」が子どもにはないのです。
みなさんも、自分が小さかったころの記憶を思い出してみてください。
「周りの大人は絶対的に正しい存在」ではなかったでしょうか?
暴力を振るう大人が正しく、嫌う自由もないとなると、子どもたちはこう考えるしかありません。

「正しいのは暴力を振るった大人だ。そんな大人に抵抗しようとする私は悪い人間だ。」

暴力は嫌だ・怖いという自然な感情をなかったことにし、大人を正当化しようとするのです。
体罰により、自分の自然な感情を裏切り・無視する子どもに成長していくとしたら、これは恐ろしいことではないでしょうか?

体罰の害は、科学的にも証明されています。

www.buzzfeed.com体罰は、与えられた側が恐怖を覚えることを前提に行われます。
問題行動を起こすと、また体罰を受けるという恐怖を「学習」させるのです。
しかしそれが脳にダメージを与えてしまう。
子どものことを考えれば、恐怖を与える体罰は行ってはならないのです。

なぜ体罰はなくならないのか?

 体罰は手軽に子どもをコントロールできる方法です。
「規律ある集団」「指導者が完全にコントロールする集団」を作ろうと思えばこれほど簡単なやり方もないでしょう。
だからこそ体罰に頼る指導者はいなくなりません。
しかし、そのような指導を受ける子どもたちは何も考えなくなります。
ただ体罰の恐怖から逃れるために委縮し、盲目的に指導者に従っているにすぎません。
また、多様な個人の集まりであるはずの集団が、完全に規律を守り・コントロールされているのはかなり異様な光景です。

体罰を行わなくとも生徒を指導し、引っ張っていく方法を考えることが指導者としての腕の見せどころではないでしょうか?
体罰や暴言によって子どもをコントロールせざるを得なくなるのは、指導者の力不足です。決して容認できることではありません。
そのような指導者の下で過ごさなければならない子どもは、とても不幸だと私は思います。